子どもを”どこから”みるか
※注意! 今回の記事には、『掃除で集められたゴミの写真』が含まれています!
ある日の預かり保育終了後。
その日は僕が預かり担当だったので、いつも通り子どもたちがいなくなった保育室の掃除を始めた。
そして、掃き掃除で集めたゴミを捨てようとした時に、ふと気になって手を止めた。

ふむふむ。ガムテープの切れ端が多い。ちぎれた段ボールのようなものも混じっている。このゴミから想像するに、子どもたちは日中、工作に勤しんだようだ。そういえば最近、工作で大きいものを作る子が増えてきて、じっくり部屋が手狭になってきていた。大きいものを作るためには、素材にも気を遣わなければならない。子どもたちも日々工夫を重ねているようだ。
そんなことを思いながらこの日はゴミの始末をして、業務を終えた。
また別の日。この日も預かり当番だったので、保育室の掃除をしたのだが、なんとなく気になって…またゴミを観察してみた。

あっ!ブロッコリーのカケラだ。誰かのお弁当に入っていたのか?そして、細かい紙の切れ端も混ざっている。切り紙遊びをした子どもがいるのかも。そういえば机の上に”ご自由にどうぞ”風に置かれた切り紙セットがあった。この時期に、この大きさの切り紙の切れ端が出ているということは、やったのは手練れ(昨年度からやっている)の子か?
そんなことを繰り返すうちに、いつしか僕はゴミを片付けるのが楽しみになっていた。ゴミに混じったものから、子どもたちの一日の動きを追跡(トレース)するのだ。ゴミに混ざる微かなヒントから子どもたちの暮らしを想像するのは面白い。探偵になった気分とでも言おうか。時として的外れな想像となっているかもしれないが、それはそれとして。とにかく結果ではなく、考えることそのものが楽しいからいいのである。
このゴミを追いかける暮らしの中で、僕はふと『子どもをみる』ということを思い直していた。


保育者であれば誰もが自然と行なっているのが『子どもの観察』だ。目の前の子どもたちがどんなことに興味を持っていて、そしてどんな遊びをしているのか。あるいは”子ども同士”や”子どもと環境”の関係性はどうなっているかを『よく見ること』が保育における第一歩として日常的に行われている。この観察(子ども理解)という行程を飛ばしてしまうと、たちまち保育は立ち行かなくなる。『保育者のねらいや思い』と『子どもの実態』が”ミスマッチ”を起こすからである。
貝塚幼稚園の保育者たちも例に漏れず、日々子どもたちの様子を観察し、その結果を同僚と話し合いながら子どもの育ちを考察したり、必要な遊びを考案したり、環境の構成(再構成)を行なっている。
当園は令和8年度4月から保育時間のほとんどを『自発的な遊びの時間』とした。その時間を子どもたちとどう暮らしていくか。子どもたちの興味関心と環境が繋がり相互に作用し合うよう、職員たちは頭を悩ませつつも、楽しそうに工夫を凝らしている。
ただ、この”観察”という言葉が、時として非常に厄介なものに変わるのだ。人によっては「子どもを見ればいいんでしょ?そんなの毎日見てるけど」と言い出しかねないのである。だからこそ、『子どもの観察』には専門性が必要なのは言うまでも無い。どういう視点で子どもを見るかで、話が全く変わることも十分あり得る、それが保育の世界なのである。
今回、僕は”ゴミ”から子どもの暮らしを追いかけ、想像をし、考察を深めた。ひょっとしてその行為も『子どもをみる』と言えるのではないだろうか?『みる』という言葉の中には、子どもたちが作ったものや描いたものなどから考察の情報(ヒント)を得ることも含まれている。であれば、預かり保育終了後のちょっとした掃除の時間でも、適切なアンテナをもっていれば、『僕は子どもをみています!』と胸を張って言っても差し支えないはずだ。 拡大解釈かもしれないが、保育者の在り方の一つとして、”直接子どもを見るだけが、観察ではないのだ”と思い直した、そんな数日間だった。

ふむ。今日のゴミには砂が多く混じっている。天気のいい日だったから外で遊ぶ子ども、もっと言えば”砂や水にまみれて遊ぶ子”が多かったのかもしれない。数日前と変わらず、切り紙をしたらしき跡もある。だが、この前から切れ端の数が増えている。ひょっとして、『切り紙仲間』が増えたのか?
というか、ふりかけの袋のゴミは、きちんとゴミ箱に捨ててほしい…。
そんなことをブツブツ呟きながら、山本は今日も掃除をするのである。『子どもをみる』ために…。


