『子どもと暮らす』

僕は保育の原点は『暮らし』だと信じている。

僕がこの仕事に就いた頃に、当時の園長から「保育は暮らしの中にどれだけのねらいをもてるか」「お弁当一つとっても、”何も考えずに食べる”のと”ねらいをもって食べる”のでは保育者の座る位置も変わる」と教えられ、以来、僕の中では『保育』と『暮らし』が切っても切り離せない関係となった。

そして研修会に参加したり、子どもに関わる様々な職種の方々と話したりしながら、自分なりに学びを深めていくうちに、やはり保育は”いかに子どもと暮らすか”に尽きるなと思うに至ったのである。

だから僕は『子どもと共に暮らしている』という感覚が得られたとき、人一倍嬉しく、そしてこの仕事をやっていてよかったとやりがいを感じるのである。

ある晴れた日のこと。
その日はたまたま外作業があり、その流れで昼食前の片付けの時間まで子どもたちと穴掘りに夢中になっていた。片付けがひと段落し、子どもたちと一緒に玄関まで戻ってきた時に、一人の子どもが玄関框の段差に腰を掛け、履いていた長靴を脱いで、その場でひっくり返した。すると、長靴の中に溜まっていた砂がザザザーッと流れ落ち、玄関の土間部分に小山を作った。

僕はその小山を見つめながら、「あらまぁ、掃除しないと。」とぼやいた。
保育者であるならば「いっぱい入っていたね」「たくさん遊んだ証拠だね」「ほうきとちりとりで集めようか」と言うのが丁寧なのかもしれないが、僕はただ、ぼやいた。

その子は自分の靴から出た砂が作った山をじーっと見つめたあと、一瞬だけ僕を見て立ち去ってしまった。ん〜、それじゃあほうきとちりとりで…と、道具を取りに行こうとした時に後ろから「ねぇ」と声をかけられた。

振り返ると年長の女の子が立っていて、「あたしがやってあげるか?」と言うのだ。どうやら一連の様子をそばで見ていたらしい。
「え?いいの?〇〇が汚したわけじゃないのに」と言うと、「うん、いいのいいの。やりたいからさ。」とのこと。そういうことなら…と、ほうきとちりとりがある場所を伝え、彼女に任せることにした。
僕は任せた以上、その場を去るのは違うなと思い、玄関框の段差に腰をかけて様子を見ることにした。

掃除の様子を見ているとそれはそれは丁寧に砂を集め、そして上手くちりとりに入れていく。掃除の時短術‼︎といったことを追求する大人社会とはまるで正反対かの如く、一つ一つの所作に時間をかけて砂を集めているのだ。

途中で集めた砂を落としてしまうハプニングもあった

僕は子どもたちの笑った顔も好きだが、同じくらい真剣な顔も好きである

実はこの時すでにお弁当の時間で、準備が早い子は食べ始めていた(貝塚では一斉に「いただきます」ではなく、準備ができた人から「お先にいただきます」スタイル)。だが、あまりにも丁寧な仕事ぶりなので、僕は急かしてお弁当に間に合わせるのは、野暮だなぁと思い、特に何も言わなかった。

そして、15分ほど経ったところで、「できた!」と女の子の方から声をかけてきた。その表情はやりたくないことをやらされたものではなく、非常に満足気な表情だった。僕が「ありがとう、助かったよ」と感謝を伝えると、彼女ははにかみながら「どういたしまして〜」と言い、少し急ぎ足で保育室に戻っていった(きっとお弁当の時間だとわかっていたに違いない)。

当然、自分でやれば3分で終わることだ。それ以前に、砂遊びを終えたところで「靴の中の砂を落としてからいこうね」と言っていたら、こんなことにはならなかっただろう。

でも、もし砂の小山ができなければ、彼女がほうきとちりとりで掃除する経験は生まれなかったし、人から感謝を伝えられる場面も生まれなかっただろう。何よりあの丁寧な仕事ぶりと全身を集中させて掃除している真剣な彼女には出会えなかったのだ。

僕は彼女が掃除をしている間、非常にゆったりと時間が流れているのを感じ、子どもの世界や感覚に触れているような気がした。それらはまさしく、子どもを暮らすことでしか得られないものであり、冒頭で述べた”子どもと共に暮らしている感覚”に他ならないのだ。

最近読んだ本の一節が頭から離れない。

暮らしよりも先に教育を置かないこと。こどもがすでに生きているところへ教育が”お邪魔させてもらう”こと。

この一節を自分の中で反芻するたびに、幼児教育・保育の原点が『暮らし』そのものであることを思い出すと同時に、日本のフレーベルとも呼ばれる倉橋惣三氏の述べた『生活を、生活で、生活へ』が、いかに幼児教育の核心をついていたかに得心がいくのである。